宮山麻里枝 

1972年東京生まれ。都立国立高校卒、早稲田大学第一文学部文芸学科卒。学生時代、映画サークルで8ミリ映画を自主制作。東京ゲーテインスティテュートにてドイツ語を学んだ後、1995年に渡独。ミュンヘン大学演劇学科を経て、1998年、初の日本人学生としてミュンヘンテレビ映画大学劇映画監督学科に入学を許可される。習作として、東西文化の交流をテーマとした短編やドキュメンタリーを撮った後、2008年、卒業制作で日独合作の初長編「赤い点」が各国の映画祭にて高い評価を受ける。


大学は、自主映画製作などサークル活動が盛んな早稲田大学を選び、第2外国語としてドイツ語を選択しました。当時はまだDVがなかったので、中古の8ミリフィルムカメラで、映画サークルの仲間達と互いの撮影に明け暮れました。初めて作った映画は、まるで理科の実験のようでした。切り刻んだ8ミリフィルムを洗濯バサミで並べてつるし、色々とくっつけて見ながら、普段スクリーンで見慣れている自然な動きや表情は、そう簡単に真似できないと痛感したものです。

卒業後はヨーロッパで映画作りを学びたいと思っていたものの、まだ飛行機にも乗ったことがなかったため、大学4年の夏、リュックサックを背負って1人でヨーロッパに行ってみることにしました。かのヴェンダースが学んだというミュンヘンテレビ映画大学を訪ね、片言の英語とドイツ語でどうすれば入学できるか尋ねたところ、志望者は何百人もいるが入学できるのは十数人で、外国人はドイツ人と同じ条件で受験しなければならないと聞き、愕然としました。帰国し、自分の進路について思い悩んでいた時、高校時代の恩師が「自分を信じて続ける事こそ才能だ」と背中を押してくれ、一か八か、自分の運を試してみようと腹を決めました。


卒業後1年、東京のゲーテインスティテュートで集中的にドイツ語を学んだ後、1995年、片道切符でドイツへ飛びました。まずは、語学試験だけで入学できたミュンヘン大学の演劇学科に籍を置き、そこで色々と経験を集めながら、映画大学の試験に備えました。ようやく合格できたのは1998年のことです。私が初めての日本人でした。と言うとなんだかものすごく勉強したようですが、そんなことはありません。当時の書類審査は、一定のテーマでストーリーを作り、カット割りを写真で表現するという内容でしたが、それらの善し悪しは非常に主観的な判断で、たまたま教授の目にとまるかどうかは、運が大きく左右します。私の場合、2回目の受験で書類審査に通り、面接で落ちたのですが、日本人で珍しかったということもあり、聴講生として授業に参加してみてはと声をかけられ、3回目の受験で正規の学生として入学する事ができました。26才「都会のアリス」から10年後のことです。


映画大学は、入ってみるととても大変なところでした。私の所属する劇映画学科は1学年全部で13人、最初の学期に、全員16ミリの白黒フィルムを3本と「お小遣い」を500マルクほどもらい、これで短編映画を撮って来いと言われます。機材は学校のものを借りられますが、脚本を書き、チームを集め、撮影を準備するのは全部、自分の仕事です。学校の仲間は共に助け合うどころか、自分こそ人よりいいものを作ろうと競争心でギラギラしています。そんな中で過ごした最初の数年間で、私は、言葉のハンディも含め自分が他の学生と「違う」ということを痛感しながら、ドイツで生き抜いていくためには、その「違い」を武器にしなければならないと気付きました。実際、日本の外に出て初めて自分の中の「日本」を意識するようになった私は、2つの文化をつなぐ作品を作りたいと思うようになったのです。


私の学科では、撮影技術やコミュニケーション理論、ドラマツルギーや演出のワークショップに加え、学生全員、学校から一定の予算をもらって2本の習作と卒業制作を作る事ができます。私は、最初の短編で、離婚した両親の間を揺れ動く11才の日独ハーフの女の子の物語を描き、その次は、1968年に日本を飛び出して以来、世界を股にかけて活躍するパリ在住の日本人俳優ヨシ・オイダさんについてのドキュメンタリーを撮りました。

初の長編映画となる卒業制作「赤い点」のストーリーは、偶然私のもとへやってきました。通訳としてある日本人の旅に同行した際、1987年にロマンチック街道で起こった交通事故のことを知ったのです。その事故で若い日本人家族が亡くなり、6才の子供たった1人が生き残りました。一方、事故を引き起こした車はそのまま逃走し、現在に至るまで見つかっていないとのこと。1つの事故により運命が交差した2人の人物が、地球の反対側で今でもそれぞれの日常を営んでいるという現実に強いインスピレーションを受け、この事実をもとに映画を作りたいと思いました。

卒業制作として長編映画を実現するためには、資金源としてバイエルン州テレビ映画基金の助成金を申請するのですが、審査に通るためには、ドイツ人に通じる西洋流ドラマツルギーが必要となります。数年に渡る試行錯誤を経て、ドイツ人の共同脚本家と、東西の感覚を混ぜ合わせながらストーリーを練り上げていきました。

その成果で、去年ようやく助成金がおり、プロジェクトを実現する事ができました。日独の撮影では、プロとして活躍されている素晴らしい役者さんが無償で出演して下さり、トヨタ自動車や日本航空、アサヒビールなどの日本企業がスポンサーとして多大な協力をして下さいました。素晴らしい出会いと経験豊かなスタッフに恵まれて初の長編映画を撮る事ができたのは、本当に幸運なことです。


今年の8月、モントリオール映画祭にて当作を世界初公開致しました。ありがたいことに4回の上映が満席となり、カナダでの配給権も売れました。観客の1人が、上映後に「蝶の小さな羽ばたきが地球の反対側まで影響を与えるという禅の教えを思い出した」と仰ったことが、深く心に残っています。かつて東京の映画館の暗闇で、ある小さなドイツ映画が私の心を捉えたように、私の映画が、地球の反対側に住む人々の心に触れることができたとすれば、それに勝る喜びはありません。


16才のあの日から初の長編映画を仕上げるまでに、20年の歳月が流れました。その間に学んだ最も大きな事は、映画を作る事は、生きる事に限りなく近い行為だということです。語るべき物語は、今目の前の現実の中にあり、映画を作ることで、人生がより濃密になっていく。今後も、日独の間で、映画作りを通して人生を探索していければと思います。



2008年ドイツ映画祭カタログ掲載記事より)

20年の旅路を経て



映画を「発見」したのは、16才の時でした。当時、高校の放送部でラジオドラマを作っていた私は、大学生のOBに「映画を見に行こう」と誘われ、愛読していた某ロック雑誌に「70年代の音楽が渋い」と紹介されていたヴィム・ヴェンダースの「都会のアリス」を見に行くことにしました。もしあの時、違う映画を見ていたら、今の自分はなかったことでしょう。

何も起こらず、ゆったりとしたリズムで流れる詩的な白黒の映像は、16才の感受性を直撃しました。それは、それまで知っていたエンターテイメントとしての映画とは全く違った「何か」でした。言葉に置き換えられないある種の感覚、今、生きている自分にとってとてもリアルな何か、それを求めて、私は憑かれたように映画館へ通うようになったのです。今思えば、当時の映画熱は、まだ人生を歩み出していなかった自分の「未知の世界を知りたい」という情熱の裏返しだったかもしれません。映画館の暗闇は、まさに世界へ通じる窓でした。